桓武天皇の御代延暦23年(804)、坂上田村麻呂が東北開拓の守護神として、武神である経津主命と武甕槌命を勧請したことが当社、志賀理和氣神社のはじまりです。

当神社は平安時代の文献『延喜式』内の神名巻に社名が記載されております。『延喜式』の神名巻には3,132座の神社名が記載されており、それらの神社を延喜式内社といいますが、当神社は数ある延喜式内社のなかで日本最北に位置しております。また『延喜式』に先立つ『貞観式』においても、仁寿二年(八五二)の条に当神社に関する記載があり、このとき当神社は文徳天皇より正五位下の神格を賜りました。

 前九年の役においては源義家による堂宇建立がなされ、藤原秀衡の時代には藤原氏の支族である樋爪太郎俊衡、同五郎季衡らの崇敬を受けたことが伝えられております。樋爪につづき、室町時代には足利氏の支族斯波氏の崇敬を受け、戦国時代には斯波氏を討った南部氏よりも当神社は庇護されておりました。戦国時代末期の領主南部重直公は当神社に「南部一の宮」の称号を献じ、江戸時代には藩主南部利視公が

 御社はとまれかくまれ志賀理和氣我が十郡の国のみをさき

と詠じ、北は八戸から南は和賀の境までの南部十郡において第一に重きをなされました。以来、南部氏の累代藩主は当神社の祭礼盛行や社殿造営、社殿炎上に対する社殿再建に努められ、光林寺を別当に定めて社僧を置かしめるなどの保護がなされました。

明治には社格制度のもと四年に郷社、大正三年には懸社に列せられました。

平成30年に国土交通省の進める北上川水系治水事業に協力し、境内を全面移転し令和3年12月新境内地に遷座されました。

旧境内地上空写真
現在の社殿

御祭神

・経津主之大神
香取神宮に祀られる武神(剣神、軍神)

・武甕槌之大神
鹿島神宮に祀られる武神(剣神、雷神)

・猿田彦之大神
開拓、道の神(天狗様)

・保食之大神
五穀豊穣、商売繁盛の神(稲荷様)

・少彦名之大神
医療、薬、長命長寿の神(薬師様)

・大己貴之大神
招福、家運隆昌、諸厄消除の神(大黒様)

・舟霊之大神
河川、海上安全、交通安全の神